ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書から...
―坂田郡近江町世継遺跡―

kouku.jpg
県営ほ場整備事業天の川西部地区世継工区内で、昭和61年度に世継遺跡発掘調査が、滋賀県文化財保護協会により行われました。
世継遺跡の存在については、昭和40年度版『滋賀県遺跡目録』に、世継の集落の南東側に世継遺跡、さらに集落東方の水田中に世継寺遺跡があげられており、早くから周知されていた。
世継遺跡は、世継に所在する深光寺に遺跡より採集された石鏃が保管されていることから、弥生時代の遺物散布地として理解されていた。しかしその後、集落の東側から隣接する水田一帯にかけて、土師器や須恵器など土器片の散布が認められ、かなり広範囲にわたる、しかも時代幅のある散布地であることが判った。
世継寺遺跡は、水田中に「興福寺」の小字名が残っていることから、「興福寺官務帳疏」にみられる寺院跡(世継寺)との関連が考えられていた。それとは別に、世継より古瓦が出土しているとの話が一部の研究者の間にあったが、瓦の所在が不明確で真偽のほどは定かでなかった。しかし字名に残る興福寺と関係するかどうか、関心のもたれるところであった。
昭和60年度に、世継と宇賀野を結ぶ県道の北側でほ場整備が実施された際、近江町教育委員会によって縄文時代から歴史時代にかけての多数の土器片が採集されている。ただ、遺物は工事中の発見であり、遺構の存在や遺跡の性格についてまでは詳細に把握することはできなかったという。しかし、世継遺跡の範囲が、当初予想していたよりも北へ伸びることが明らかになった。また、注目すべき遺物として、縄文時代晩期の滋賀里Ⅲ式の土器片が1点混っていた。米原町入江内湖に形成される遺跡と同様に、当地においても内湖縁辺部の微高地に、縄文時代の遺跡の立地する可能性が強くなってきた。

世継は旧近江町の西端に位置し、琵琶湖に面している。湖岸には浜堤が形成され、その上に集落が営まれている。調査の対象地は、この集落の東側一帯に広がる水田地帯である。この地は、町内を東西に流れる天野川が形成する沖積低地である。浜堤と水田との比高差は約1.3mを測り、比高差が0cmとなる地点は、東へ約750mと緩やかな傾斜となっている。
集落の南側には、浜堤を断ち切って天野川が流れ、さらにその南にはかつての入江内湖がみられる。
また、北側には浜堤と沖積低地が続き、小さいながら沼地が残っている。
このような地形をみると、今回の調査地はすべて水田化されてはいるけれど、かつでは浜堤のすぐ東側に後背湿地帯が、あるいは広く内湖がみられたものと思われる。

世継の歴史を考えるうえで見過ごせないのは、その地名の由来である。『坂田郡志』は、「古く四大樹ありしより四ツ木の名を得た」との伝承をのせている。それに対して林屋辰三郎氏は、世継の地名をそのままに解し、世継の物語を伝える集団の居住するところと考えている。つまり世継とは、世々のことを継々に語ることであり、その語られた物語とは、古代より坂田郡に勢力を張っていた息長氏の伝承ではないかとのべられている。息長氏は天武八姓の主位である真人姓をうけ、奈良時代にひき続き郡の大領をつとめ、平安時代には正暦のはじめごろより長保2年にかけて(990~1000)、旧米原町に所在する筑摩御厨の長を任じられるなど、当地域との関係はけっして薄いものではない。

こうした歴史的背景からみれば、旧朝妻郷内に属する世継は、古代においては天野川をはさんで朝妻湊と対をなす古津としてとらえる必要があろう。


foot-.pricepng.png