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昔は稲作に肥料らしい肥料もなく、工夫をしては一粒でも多く米を取る努力をされました。

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○堀田と、はね田
土を乾かしておくと稲がよく育つということから掘田をされたようですが、堀田鋤で土を切り上げるのは容易ではないため、大正初期ごろから、はね田をする人がではじめました。それを見て「あんななまくらをやって」と笑っていた人たちもいつの間にか、楽なはね田に変わっていったと聞いております。
寒い日でも田圃に水を入れて素足に足なか草履(足の半分ほどの長さでトンボ草履ともいう)を履いてのはね田は大変でしたが、長いと跳ね上がって仕事ができなかったのです。ワラは肥料にするため、できるだけ多く入れました。

○砕き田
はねた土きれを三つ鍬で細かく砕くのですが、水がないとなかなか砕けないので、水を入れて能率を上げようとしますと、今度は前掛けをしていても肌まで濡れてくるという具合でした。
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○小均し(しろかき)
砕き田が終わるころには苗も伸びて来るので、今度は三つ鍬や五つ鍬で後じさりに小均します。
前掛けをしていても砕き田のとき以上に泥んこになりました。
早く均した田圃はもう一度田植え前に大きな鍬で均して、土を軟らかくするとともに、草の生えるのも防ぎました。
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○牛馬による農耕
牛や馬を飼っている人はそれらに農耕をさせましたが、飼育や諸経費の関係もあり、ごく一部の人たちでした。

○雨具
仕事の雨具は蓑や(トイ)を着ました。
トイは薄いゴザに柿の澁(しぶ)の塗ったカッパが張ってありました。



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○農繁期の田圃の風景
家は戸を締めて野良仕事、子供をおんぶして仕事をしているお母さん、乳母車の赤ちゃん等大変でした。
農繁期は前小昼、昼食、午後も小昼も戴きましたので木製の大きなメンツで弁当を持って行く人、おひつで持って行く人、弟や妹を背負って乳を飲ませに行くお姉ちゃんなどは大変ですが、年中農繁期はこんな風景でした。

○苗代
四月上旬頃には苗代の種蒔きです。苗代作りの失敗は許されません。田植えは苗を普通は二本づつ植えますが、足りないときは一本植えもやむなしとなり、それでも足りないときは皆さんに苗のお願いをしますが、それぞれの田植えが終わってからでないといただけませんので大変なことです。
苗代作りは肥料もなかったので、ほ場を下肥をまいたあとにワラや稲株の残っているものを、木鍬等で刻み込んで異物をなくし、その後竹製のシュモクで水平に均して仕上がりでした。
丁寧に選別して水に浸けておいた籾種をまくと、あとは水等の管理で生育を待つだけです。


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○田植え
六月になるとどこでも田植えが始まります。毎日毎日、朝薄暗いうちから女の人も苗代に行って苗取りです。苗が取れると竹製の苗籠にいれて田圃へ担って運びます。田植えは九株づつ植えられるように縄を張って、その間に苗を適当に配って置くか、苗籠に入れて腰に下げるかなどして後じさりに植えていく等、地域によりさまざまでしたが、これも中々大変な仕事でした。
遠い人は一日に一反ぐらい植える人もいました。
戦後まもなく田植えの枠が作られ、枠を押さえ付けながら転がして、その筋の跡に前向きに田植え籠を腰に下げて植えられるようになりました。
田植えが終わると苗代の後始末です。余った苗は田に埋めては勿体ないので、苗を山にして置きました。
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○蛭(ヒル)(ヘルメ)
田植えのころになると田圃の中を嫌なヒルが泳ぎ始めます。「あっ痛い」と思って見ると足にヒルが吸いついており、指先までつまんで取ろうとしてもなかなか離れません。やっと離しても殺すこともできずその場で捨てました。用心をしていても何ヵ所か吸われたものです。
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○ヂャ車で水揚げ
来る日も来る日も天気ばかりで川の水は無くなり、一番水の欲しいときに田の中に亀裂ができ、折角の稲が枯れそうになります。百姓の人たちは何とか我が田圃に水を入れようと日夜一生懸命です。少し流れている川の水を川上の田の水口を止めて、我が田に引っ張ってきて「我田引水」座り込んで水番をしたりしますがとても駄目です。
そんなときには、大川には水が溜まっている。村にはため池が有る。そんな地域では村で相談してヂャ車で水揚げをされましたが、ほんの一時しのぎでした。
又、昔は日照りが続くと水喧嘩がよくあり、血を見ることもあったようですが、その直後にでも雨が降るとけろっとしたもので「よい雨が降って良かったなあ」と、昨日のことは忘れてお互いに喜ばれたそうです。
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○草取りと田かき
田植えが終わると草が生えてくるので、株間を間鍬で引き掻いて中耕を兼ねて草もおこしましたが、田かき車ができてからはそれを使うようになりました。
次は一番草、二番草、と順次草取りをしますが生えてこない田圃も手抜きは禁物でした。
次は三番草ですが、この時分はもう真夏で暑さ厳しき候でした。これが終わると水を落として中干しするため、よく乾くように田圃の状態に併せて溝を作ります。この作業を手溝掻き(シト掻き、こじ割り)と言いました。この三番草を塗り田と言い見落としのないよう撫でて歩きました。

○いもち送りと誘蛾灯
稲穂が出るころになると村では、いもち送りの日を決め、お百姓の人達が日暮れになってから、たいまつを点けて「いもち送るぞー」と大声で叫びながら一斉に害虫退治をしました。
これは火を見て害虫がよって来るのを退治したのだとおもはれます。
いもち送りが誘蛾灯に変わり、夕方になるとブリキ製のお盆に水を入れて真ん中にカンテラに火を灯して置くと、虫がよって来て焼け死にました。


○秋の取り入れ
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①十月末頃から稲刈りが始まります。最盛期となると朝に明星・夕に夕星・を敷きながらの農繁期となります。秋の仕事は年寄りも子供も出来る仕事があり、小学校では農繁短縮と言って小学四~六年は二時間、高等科は朝から休みの時もあり、猫の手でも借りたい程の忙しさでした。
稲刈りはノコギリ鎌で一株一株刈ってワラで作ったすがいで括り、稲こきの場所に集めます。これをどゆ刈りと言い、籾の乾燥は二日がかりでした。
又、俵や、草履、縄、その他色々に使うワラ仕事用や雨が続いて仕事が遅れるときなどは、ハサ刈りをしてハサ架けをしましたが、籾の乾燥は一日ですみました。





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②千歯こきで稲こき
十七世紀後半、江戸時代に農具の改良や発明など種々の進歩があり、その結果、千歯こき、唐箕、千石通し、踏み車などが普及したようです。千歯こきが出来て、それまでの「こきばし」による脱穀に雇われていた後家さんの仕事がなくなり、困られたので千歯こきの事を後家倒しとも言ったようです。稲こき機が出来るまではこの千歯こきで、昭和初期にも使っている人も見えました。















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③足踏み脱穀機で稲こき
稲刈りをして束ねて稲こき場に集めて脱穀です。
場の下には竹で作ったミザラを敷き、その上にムシロが敷いてあります。
脱穀した籾は籾通しで籾を選別してシヨゴ(てご)や叺に入れますが、天の恵みの風がないと選別が出来ないので困られました。










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④天秤棒や荷車で籾運び
容器に入れた籾は天秤棒で、生き杖を使って両肩に荷を効かせて担います。重い、重い、あぁーえらい、生き杖をついて一寸一服。女の人もせたで背負って運びました。
普通の野道は幅三尺か、それ以下で荷車の通れる道は村と村との連絡道路(幅一間一八0センチ)くらいで、殆ど三町でも五町六町でも籾干場まで肩で持つか背で持つかで運んだものです。







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⑤籾干し場と干し場小屋
ムシロ干しで大百姓の人は百枚も二百枚も干します。「女ごころと秋の空」お天気頼みで空模様とにらめっこでした。三時過ぎにはムシロを畳んで積重ねて下敷きのワラを乗せ、ムシロをかぶせた山を作られましたが、昭和になって竹とワラで干場小屋を作られるようになり、生籾も保管出来るので助かりました。
籾干しはお昼前と後に乾燥をよくするため、籾をムシロの中央に寄せてすぐ広げました。干し場の仕事は、じいちゃんばあちゃん子供も皆がお手伝い、時雨でもきたら猫の手も借りたい程でした。






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⑥ヤタかち
稲こきをすると沢山穂が千切れます。この穂を集めたものを「ヤタ」と言いました。
ムシロで干して、ヤタかち棒で叩き一粒一粒の籾にします。

⑦落ち穂ひろい
ちょっと仕事の余裕が出来ると腰にドンベカゴ等をさげて稲刈りや、持ち運びで千切れて落ちている穂を拾って歩いて、やたと同じく籾にしました。
八十八と書いて米と言う字になる。「八十八回手をかけないと一粒の米が採れない」粗末にしたら罰が当たると教えられてきました。





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⑧藁積み(ススキ)
ハサ藁は絵のように積んで置き、藁仕事に、残りは風呂焚きや畑仕事に使いました。
どゆ藁はススキ一本三十八束のものと五十束のものとが有り、用途は焚き物や畑、そして田圃の唯一の肥料に使われました。

⑨豆し
春の田砕きの頃、各自の境界畦を作り直して仕上げると、土が軟らかいうちに挙骨で穴を空けて大豆の種を植えて灰と籾糠を混ぜてかぶせておきます。この仕事は子供がいると子供の仕事でした。
畦にも草が生えるので畦草取りも大事な仕事でした。稲の収穫が終ると豆も収穫期となり、豆の木を引いて干し場で乾燥して、家族皆で竹のミザラの上で叩いて脱穀しました。大豆は味噌作りを始め、煮炊きその他副食に、残りは売られました。





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■臼引きから米搗まで

○臼引き
臼(土臼)には赤土のたたきに堅い木の歯が埋めてあり、回すと籾の皮が割れて臼から米と籾ぬかが出てきますが籾の埃で家の中は埃で一杯、汚いのとハシカイのとで大変でした。お母さんは臼を回しながらゴシで籾を掬っては臼に入れました。

○唐箕あうちー米俵まで
籾ぬかと米を、唐箕で煽って選別をします。選別した米を金通し(千石通し)で再度選別して1斗升で4斗を測って俵に入れて括ると完成です。







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○収穫と年貢
太閤検地のあった一五九0年頃は、石高の三分の二が年貢で残りの三分の一が農民の得る分で過酷な年貢だったとあります。
昭和時代には小作・反収七俵位の田で、地主に払う年貢は大体三~三表半約半分位だったようです。
大地主から借りている人は米が出来次第、早く年貢を納めないと、「あの米俵の上に積んで置いて」と言われて「あの高いとこへ担いで上がる辛さ、泣けてくるで」と言う人もありで、急いで持って行かれたと聞いています。お嫁入りの時は少しでも田の多い家にと願われたようです。戦後は農地解放等により総てが変わりました。



○水飲み百姓
収入は米だけで苦しい生活の人が多く、自分の田圃が少ない人とか無い人は、田を沢山持っている地主から田を借りて力一杯働きますが、やっと取れた米は半分くらいは年貢、残りで飯米と、米代で家族が生活です。子供も大勢でとてもお金が足らず止む無く飯米を売ると、食べる米が足らず水を飲んで一時しのぎをします。米を取りながら水を飲んで腹を膨らすので、「水飲み百姓」と言ったようです。

○我が村の明治四十三年田地当米台帳から(一反当たり)
一等田 四俵一斗八升  二等田  四俵一斗五升  三等田 四俵一斗二升
四等田 四俵  九升  五等田  四俵  六升  六等田 四俵  一升
七等田 三俵三斗六升  八等田  三俵三斗一升  九等田 三俵二斗六升
十等田 三俵二斗一升  十一等田 三俵一等六升 
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○肥料はどんなもの
当米台帳と同じ年の反当肥料も記されていましたが、省略して品名のみ記しておきます。ワラ・繭虫・緑肥・人糞尿・ニシン・白子・硫曹・小糠・等でした。
肥料の量には限界があり何とか少しでもと思って、堤防や道端の草刈りをして緑肥の足しにされましたが、たまには草刈りで喧嘩が始まったと聞いております。前記のような肥料では今の時代では考えられませんが、生きるために努力されたものと先人に感謝します。

○米搗
どこの家でも門口を入った庭に、米つきの唐臼(から臼、石製)が埋めてあり、正月が過ぎると道具を据え付けて、一年中の飯米の米つきが始まりました。足で踏んでトッカンコ、トッカンコと音をさせながらつきました。子供が大きくなると兄弟二人で力を合わせて搗いている姿も見られました。


27.jpg ■米締め

一年の飯米を冬の間に白米にして俵に入れて保管しますが、夏になると虫が付いたり、酸っぱくなるため土用以後の飯米は、俵の中に更に丈夫な紙製の袋を入れて白米を入れ、縄を槌の子で叩いたり、米締めの道具を使って固く締めながら括りました。それでも虫が発生して袋に穴があくため毎年継ぎを当てました。





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■藁加工と加工品


農家では家の庭か、軒下、小屋の中などに、やや丸みのある円形の石が埋めてありました。
この石の上で束ねたすぐり藁を槌の子で打ちます。「トン・トン・トン・トン・」と藁打ちの音は隣近所にもよく聞こえたものです。
加工の主なものは縄縫い・草履作り・脚絆・蓑・縄もっこ・皿もっこ・俵・干場の下敷き用こも等・地域によってはムシロ・てご・かます等生産販売もされていました。
縄の需要は多く、細縄、中縄、太縄等で何をするにも縄が必要でした。昭和になってから縄縫い機が出来ましたが殆どの人が小まめに縫っていました。その他の加工品も百姓の仕事には欠かせない物ばかりで、色いろ工夫をしては作っておられました。
昼の短い冬ですからアンドンの明かりで、大正五年頃からは薄暗い電気の明かりで、夜も男はワラ仕事、女は針仕事の夜なべに精を出しておられました。


畑作業

30.jpg ■猫のひたい程の一寸した場所も工夫をして畑作をされました。


肥料は主に人糞尿、ワラ灰、そして地域の産業で発生した肥料分のある廃棄物等でした。
日照り続きになると何処の家でも、川から水を田桶に汲んでは便所に入れて、夕方になると、又、それを汲み出しては畑作物にやる等、大変な仕事でした。
野菜も作って出荷して収入を上げている人は、町まで肥持ち車で下肥えを貰いに行かれ、船のある人は船で運ばれる等で何時も湖上には舟が見られ、湖岸の村には舟が彼方此方に繋がれていました。
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■湖と化した琵琶湖周辺の様子


日照りが続くと一番に焼けて稲を枯らす村あり、焼けずに済む村もあり、でした。
又、暴風雨で琵琶湖の水位が上昇し、湖畔では田圃も村の中にも水が込んできて、一面湖と化し、稲も野菜も全滅。村人は隣村や縁故を頼って身の回りの荷物を持って、何日も何日も非難されました。このことを「水上がりと言われていました」。その辛さの表現を「焼けず込まずの○○の里へ娘やりたや婿ほしや」と言われました。反対に暴風雨や長雨で琵琶湖が増水して込んでくると、一番に田畑は冠水、稲も野菜も全滅もあり、家の中は床上
浸水、そして反対に日照りになると一番に水が無くなり、稲は枯れてしまって米がとれない村を「一に水、二に日照り嫁にやるまい○○村へ」と唄われている村もあったと教えてくれる人もいました。
天保七年には碇より長沢まで船で渡る。明治二十九年には水位三メートル上昇の記録があり、世継や周辺の村では床上一メートルくらいの所に、浸水の跡が有ったと伝えられています。湖周ではこんな地域がたくさん有ったことと思います。(その他省略)これらのいい伝えなど総合すると下記の範囲くらいまで水が込んだものと思われます。
昔は琵琶湖が増水しても、昔の瀬田川から流出するだけで、中々水嵩が減らず湖周の地域によっては死活問題だったと想像します。
幸いにして京阪神壱千三百万人の水瓶(がめ)でもあることから、琵琶湖総合開発事業が計画実行され、現在では冠水している田畑は見られなくなり、嘘のようですが先人たちのご苦労は大変だったと思われます。


■戦後の農業の発展

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戦後の新開発製品は、耕運機、テーラー、稲刈り機、田植え機、動力脱穀機、籾乾燥機、籾擦り機等などが生産され、条里制やそれ以降に出来た田圃は、殆どがほ場整備をされました。
従って農機具もおいおいと大型化し、大型設備の時代となり、カントリーや育苗センター等も出来て籾の乾燥から米、そして出荷、家には一粒の籾も持ち帰らない百姓になりました。確かに素晴らしいと思う反面、自然環境の破壊、田圃には除草剤が惜しげも無く使われ、病害虫駆除には農薬の散布、豊富に有る水を使っての泥水の流失等々、薬害や公害も有り、川には魚の姿も見えず、前述した総てが昔しとなり、農具も田圃の景色もその姿を消してしまいました。



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